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三丸興業株式会社
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企業情報 事業案内 主要ビルのご紹介 三丸興業150年史
 
三丸興業150年の歩み
港都・横浜とともに歩んで
2009年(平成21年)、横浜港は開港150周年を迎えました。
1859年(安政6年)横浜港開港と同時に創業した三丸興業は、古くは海産物の取引業から始まり、エネルギー、金融、不動産と、常に時代の先を読み、自らを「変化<チェンジ>」させることで激動の時代を乗り越えてきました。
その150年の歴史をご紹介いたします。
幕末〜明治 大正〜昭和 そして平成へ 150年のとき
幕末〜明治
三丸興業のルーツは、享保年間(1716−1735)に播州明石出身の渡辺治右衛門が江戸に出て、日本橋四日市(日本橋のすぐ近く、現在の野村證券本社付近)に海産物商「明石屋」を開いたのが始まりです。
「明石屋」はその後、江戸でも指折りの海産物商に成長しました。
そして1859年(安政6年)、横浜港が開港されると、海外貿易の可能性を読み取り、横浜に支店を進出。これが三丸興業の始まりとなります。
(既に隠居していた七代目治右衛門が開店を決断、横浜初代経営者となる。)
横浜に進出した「明石屋」は、通称「石炭屋」として、蒸気船の燃料である「石炭」を中心に、江戸の本店時代から取り扱ってきた「海産物」、そして当時の主力輸出品である「生糸」という、三つの大きな柱で、事業を拡大していきました。 この間、八代目治右衛門の弟、大河原知治が横浜店の二代目の役割を果たします。
そして、1873年(明治6年)。
弱冠19歳の若者が、石炭屋の暖簾を引き継ぎます。3代目社長の渡辺福三郎(八代目治右衛門の次男)です。
当時の横浜港は、海外向けの生糸貿易で活気にみち、「横浜商人」と呼ばれる豪商たちが、莫大な利益をあげていました。
そうした中、福三郎は誰も注目していなかった新たなビジネスに目をつけます。 貿易融資や不動産投資といった金融ビジネスです。
そこで福三郎は、石炭屋の事業内容を大きく転換。 1911年(明治44年)には不動産と投資管理を目的とする渡辺合名会社を設立します。
さらに翌年には、渡辺銀行を創設するなど、福三郎は横浜商人のニューリーダーとして、地元の経済界を引っ張っていきます。
福三郎の活躍はビジネス界だけにとどまりません。1890年(明治22年)、横浜市制が施行されると、市議会議員に当選、その後、1894年(明治26年)、第三代横浜市議会議長に就任し、以来12年間にわたって議長を務め、横浜の街づくりに貢献しました。
さらに、鉄道、ガス、倉庫業などの社会インフラ事業にも積極的にかかわり、横浜港の大規模な埋め立て事業では主導的な役割を果たします。
この時期、横浜は商業都市から工業にささえられた貿易都市へと変貌をとげるのです。
こうした福三郎の活躍を陰でささえていたのが、妻の多満です。
多満は、群馬・松井田出身。
福祉や教育の慈善事業に力を注ぎ、中でも日本初の女子夜間学校「横浜女子商業補習学校」の創設ならびに運営に尽力しました。
その後、同校は多満の遺志を継ぐ渡邊家のものが経営を担い、『横浜女子商業』、『横浜山手女子』の名で親しまれながら、100年を超える歴史を紡ぐに至りました。
そして、創立100周年を機に、21世紀が求める教育の展開に備えるために、学校法人中央大学との合併を行い(平成22年)、同大学の附属校として新たな歴史を歩むことになりました。
同校は2013年(平成25年)に校史の舞台となった山手(中区山手町27番地)から都筑区牛久保東に移転、校名を『中央大学附属横浜中学校・高等学校』に変更し、現在に至っております。
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19世紀初頭地図「日本橋周辺」
横浜港大桟橋入口
横浜港大桟橋入口(明治23年〜27年頃)
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石炭屋「渡邊福三郎」
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横浜貿易商十傑肖像 右:渡邊福三郎
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明治45年 渡邊銀行
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渡邊福三郎と多満
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「横浜女子商業補習学校」と「創立10周年時の渡邊たま」
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横浜山手女子中学校・高等学校
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中央大学附属横浜中学校・高等学校

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